今回の震災では、妻の実家がある茨城県北茨城市でも海岸沿いの地区が大津波に襲われ、甚大な被害が出ている。
上の写真は2008年8月に次女夫婦と孫を連れて実家を訪れた際に立ち寄った「六角堂」(国の有形文化財に登録されていた)だが、100年以上前に建てられたこの貴重な文化財も、今回の津波で土台だけを残して全て消失してしまった。
→六角堂消失 被災文化財300件身内のプライベートな写真を載せたついでに、震災当日の私の家族の状況もここで書いてみることにしよう。
まず、私自身は3月9日早朝に自宅を出て、数人の仲間たちと一緒に真壁トライアルランドで全日本のセクション作りに連日汗を流していた。
大地震発生時の様子は
前にここで書いたとおりだが、かつて経験したことがない激しい揺れに「これは広い範囲で被害が出ているはず。恐れていた「大地震」がついに来てしまったのだ‥‥‥」と思い、離れ離れに暮らしている家族の事がまず心配になった。
急いで携帯で妻に電話をするが、当然のごとく繋がらない。チクショー、何でこんな大事な時にに使えないんだ!!
連絡が取れないとなると、不安はどんどん膨らみ続ける。クルマの車載TVをつけると、レインボーブリッジのすぐ脇で黒煙がもうもうと立ちのぼる映像が映し出され、さらに不安が広がる。
こんな時はメールの方が連絡が取れやすいと聞いていたので、最低限の短い文章をメールで送信しようとするものの、やはり送信できない状態だ。
諦めずに何度も送信を試みるうちに、やっと送信はされたものの、相手の携帯までちゃんと届くかどうかはわからない。
でも、とりあえずこれで気持ち的には少し落ち着きを取り戻せた。
悪い胸騒ぎのようなものも感じていなかったので、きっと無事に違いないと確信した。
そしてしばらくして、妻からの無事を伝える短いメールが私の携帯に届いた。
その時点で私は、震源地に近い妻の実家の状況の方が心配になっていたので、その旨をメールで返信したが、これ以降妻とのメールのやり取りも途絶えてしまう。
あとで分かったことだが、最初のメール以外は妻の携帯には届いていなかったそうである。
とりあえず妻の無事が確認できてひと安心した私だったが、栃木県の市貝町(もてぎの隣り町)で働いている長女と、都内霞ヶ関で働いている次女、そして次女が住む千葉県船橋市の保育園に預けられている3才の孫の事が気がかりだ。
特に、鉄道が全て止まっているとニュースで報じられた都内にいるはずの次女と、両親と離れ離れになって保育園にいる孫のことが心配だ。
ニュースでは、都内にいる人は今夜は帰宅を諦めて会社などに泊まった方が良い、などとと言っている。
次女の婿殿もやはり霞ヶ関で働いているので、孫を迎えに行くことはできないのではないだろうか‥‥‥そんな不安が消えないまま夕刻になり、真壁トライアルランドにいた我々全日本設営部隊は、とりあえず今夜の宿に移動する事にした。
(続く)
PR